中国の経済発展は真実すばらしいことだと思います。
いまやGDPは世界第2位となったのですから。
しかしこの先中国はどこに行くのでしょう?
共産主義国家として生き延びるのか、資本主義国家に脱皮するのか、あるいは1国2制度のままなのか。
経済学者やエコノミストの見方はいわゆるソフトランディングとして「資本主義経済への脱皮」を想定しているようです。
一方私の見方は中国は資本主義経済にはなれないと考えています。
その理由は、ヘーゲルが結論づけたように「持続の帝国」中国は、明朝であれ清朝であれ共産主義王朝であってもその「姓」に関わりなく連綿と続く社会システムは不変であり、資本主義経済が定着する余地がまったくないと考えるからです。
参考
中国では、歴代王朝は戦いに敗れた者が去り、勝った者が王朝を作りましたが、官僚統治機構などの社会システムにはまったく変化がないため、王朝の「姓」だけが変わったとして易姓革命と呼ばれています。
中国が資本主義経済にはなれない理由その1
中国は法治国家ではありません。
法家の国と呼ばれ、紀元前3世紀、韓非子は「政治の要諦は法術による」と述べ、その立法は二千年余の歴史を有し、科挙により選ばれた優れた官僚による統治機構は中国が世界に誇れる文化です。
しかしその「法」の原則は近代法の考え方と相容れないものです。
近代法の原則は、平等の原則、私的所有権の絶対の原則、私的自治の原則とされています。
これは、王様(権力者)が好き勝手に税金を搾取し、市民に罪科を課さないよう手足を縛ることで、市民を守ることを目的にこの3原則が打ち立てられたのです。
しかし中国の法概念は権力者が人民を統治する手段としての道具なのです。
参考
中国の思想では「法律」は「政治」に従属するものとしています。
中国の支配の階層は、上位:共産党 下位:国家及び法律 となっています。
中国では、「法」は皇帝のものであり、韓非子が法を解釈するときは「役人」を先生にしなさいと言ったように、法律とは統治する側のもので、人民を守るという考え方や法の下での平等という概念がまったく欠落しています。
したがって人民を守ってくれる法律は中国4000年の歴史にはなく、正義とか平等とかの普遍的な倫理観もありません。
中国の法の中心にあるのは、儒教の教えによれば「よい政治をすること」です。
「よい政治」とは、天下大乱を治め、夷狄(いてき)から国を守ることです。
孔子は、論語の中で主君を裏切った桓公(かんこう)について、天下をまとめ上げた功績に比べれば個人的なつまらない義理立てなどどうでもよいと言っています。
この考え方から天安門事件における鄧小平の決断も「よい政治をする」ためには多少の犠牲もやむを得ないということだったのではないでしょうか。
この事件について共産党による1党独裁だから発生したと考えるマスコミが多いようですが、中国の長い歴史を見れば当然の帰結であり、「よい政治を行う」ためには人権などは取るに足らないことなのです。
そして中国共産党の意義についても、歴代の「王朝」の一つと考えるとすべてのことが矛盾無く理解できます。
中国における「法」は皇帝のものなのですから、中国人民にとって法とは人民を苦しめ搾取する手段との考え方が強固にあります。
こうした背景から、中国人民はいわゆる人権を担保する手段として「帮(ほう)」を何よりも大切にしています。
「帮」とはすなわち根本的人間関係(自己人(ツーチーレン))です。
日本では義兄弟が似た意味になりますが、「帮」は命懸けの信頼を意味しており、その重みは天地の開きがあります。
「帮」で行われた約束は必ず実行され、契約書などはいっさいなく、そこには堅い信頼だけがあるのです。
参考
資本主義経済において「契約」は絶対です。相手が個人であっても国家であっても一度契約が結ばれれば双方に契約の履行義務が発生します。この契約の絶対を担保しているのが「民法」ですが、中国においては法家の思想の影響から、また近代法における「私権」にかかわる根拠法規がないため民法は未発達な状況となっています。このため「民法⇒契約」の関係が「帮(人間関係)⇒契約」の関係となっています。
経済活動においてもこれは同様であり、ものの「価格」は人間関係の濃淡により変わります。
また行政においても、役人の個人レベルでは法よりも「帮」が優先されるため、事情変更(契約内容の事後修正)がたびたび行われることになります。
そして一般庶民は官僚との人間関係を濃くするためあらゆる手段(贈り物)を使うことになります。
注意
日本でのワイロは「見返り」の約束を買うことが目的ですが、中国の「贈り物」は「情誼(チンイー)」を得るための「気持ち」の現れなので、1回贈ったから見返りが期待できると思ったら大間違いとなります。
中国人にとって贈り物は決して道徳に反した行為ではありません。
贈る方も貰う方も人間関係を作る上でとても大切なことなのです。法律などの出る幕ではないのです。
この倫理観は古く、三国志の桃園の義盟(劉備、関羽、張飛が義兄弟となり堅い契りを結んだ。)のころよりつづく中国人にとっては崇高かつ血肉と化した考え方なのです。
この倫理観より、資本主義経済においては「絶対」であるべき「契約」が中国においては相対的な意味しかもっていないのです。
中国は資本主義経済に変われるのだろうかその2
投資や家計全般のご相談についてはこちらをご覧ください。
中国では、「法」は皇帝のものであり、韓非子が法を解釈するときは「役人」を先生にしなさいと言ったように、法律とは統治する側のもので、人民を守るという考え方や法の下での平等という概念がまったく欠落しています。
したがって人民を守ってくれる法律は中国4000年の歴史にはなく、正義とか平等とかの普遍的な倫理観もありません。
中国の法の中心にあるのは、儒教の教えによれば「よい政治をすること」です。
「よい政治」とは、天下大乱を治め、夷狄(いてき)から国を守ることです。
孔子は、論語の中で主君を裏切った桓公(かんこう)について、天下をまとめ上げた功績に比べれば個人的なつまらない義理立てなどどうでもよいと言っています。
この考え方から天安門事件における鄧小平の決断も「よい政治をする」ためには多少の犠牲もやむを得ないということだったのではないでしょうか。
この事件について共産党による1党独裁だから発生したと考えるマスコミが多いようですが、中国の長い歴史を見れば当然の帰結であり、「よい政治を行う」ためには人権などは取るに足らないことなのです。
そして中国共産党の意義についても、歴代の「王朝」の一つと考えるとすべてのことが矛盾無く理解できます。
中国における「法」は皇帝のものなのですから、中国人民にとって法とは人民を苦しめ搾取する手段との考え方が強固にあります。
こうした背景から、中国人民はいわゆる人権を担保する手段として「帮(ほう)」を何よりも大切にしています。
「帮」とはすなわち根本的人間関係(自己人(ツーチーレン))です。
日本では義兄弟が似た意味になりますが、「帮」は命懸けの信頼を意味しており、その重みは天地の開きがあります。
「帮」で行われた約束は必ず実行され、契約書などはいっさいなく、そこには堅い信頼だけがあるのです。
参考
資本主義経済において「契約」は絶対です。相手が個人であっても国家であっても一度契約が結ばれれば双方に契約の履行義務が発生します。この契約の絶対を担保しているのが「民法」ですが、中国においては法家の思想の影響から、また近代法における「私権」にかかわる根拠法規がないため民法は未発達な状況となっています。このため「民法⇒契約」の関係が「帮(人間関係)⇒契約」の関係となっています。
経済活動においてもこれは同様であり、ものの「価格」は人間関係の濃淡により変わります。
また行政においても、役人の個人レベルでは法よりも「帮」が優先されるため、事情変更(契約内容の事後修正)がたびたび行われることになります。
そして一般庶民は官僚との人間関係を濃くするためあらゆる手段(贈り物)を使うことになります。
注意
日本でのワイロは「見返り」の約束を買うことが目的ですが、中国の「贈り物」は「情誼(チンイー)」を得るための「気持ち」の現れなので、1回贈ったから見返りが期待できると思ったら大間違いとなります。
中国人にとって贈り物は決して道徳に反した行為ではありません。
贈る方も貰う方も人間関係を作る上でとても大切なことなのです。法律などの出る幕ではないのです。
この倫理観は古く、三国志の桃園の義盟(劉備、関羽、張飛が義兄弟となり堅い契りを結んだ。)のころよりつづく中国人にとっては崇高かつ血肉と化した考え方なのです。
この倫理観より、資本主義経済においては「絶対」であるべき「契約」が中国においては相対的な意味しかもっていないのです。
中国は資本主義経済に変われるのだろうかその2
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